記事の書き方

自分以外の読者がいるかもしれないから、記事の書き方を記す。

まずは書いてみるつもりで書いたものを推敲もせず公開する。頭の中にある範囲で書く。例えば紀行文なら、旅をしながらスマホなり本なりで調べて知識を思い出しながら自分が経験したことを説明する。だから正確性は担保されない。誤って記憶したこと自体に意味があると思っている。出典等は調べたものを備忘録的に必要に応じて記すだけ。記事は何度でも加筆修正する。だから日記として書くわけではない。何年も前の事柄についても思い出しながら記すつもりだ。日記の類は別にある。誰か他人が読むかもしれないと思ってものを書く。

帯広から札幌へ

帯広を札幌と比較して思うのは、整然とした町割でありながら、その中心が大きくずれていることである。北1西1は大きく北東に偏り、市域は南西へと広がっている。十勝川と中札内川の合流地点から川から遠ざかるように市域が広がっている。ここはかつて広大な湖だったという。十勝平野一帯に広がる泥炭層の厚い堆積がそれを示している。百数十年前は、じめじめとした湿地が広がり、人はほとんどいなかったのだ。十勝川温泉のそばにある展望所から、十勝平野、その向こうの日高山脈を望むことができる。

「開拓」というのは「本当に大事なもの」を探す心にはそれは重く響く言葉だ。この地には明治開拓期の依田勉三、戦後開拓の坂本直行という巨人がいた。直行さんが描いた日高の山並みを街から望んでみたかったが、あいにくこの地域には珍しい雲の多い日だった。

市内には銭湯が多く、そのいずれもモール泉をたっぷりとたたえている。シャワーから出る湯もモール泉だ。茶色く濁った湯は肌につるりとまとわりつく。これもまた泥炭の産物である。私が入ったのは「アサヒ湯」「白樺湯」そして以前に「おべりべり温泉」。最後の湯はシャワーはモール泉でなかったと記憶している。

特別風が強く吹き抜ける日だった。その低い箱のような家が並べられたような街並みに風は迷うことなく吹き抜けていく。駅北側の繁華街は、そんな風から多少身を守れそうだ。駅北側に商店街や飲み屋、そして夜の店が混然となって軒を連ねる。商店街の中心に藤丸百貨店があったが、2022年閉店してしまった。アーケード街も歯抜けのような空洞があって昼歩く人はほとんどいない。夜の人では多い。したたかに飲んで友人の家に転がり込んだ。

食。帯広地方中央卸売市場の場外では海鮮や野菜などが買えた。中の食堂でも海鮮を食べることができる。豚丼、豚カツ、豚の美味しい土地だ。はげ天は老舗の天ぷら屋である。オーストラリアスタイルの喫茶店もあった。大柄なカップに並々と注がれたコーヒーを飲むことができた。30分ほど来るまでかかるが、近郊の池田町ではワインが有名だ。寒冷地に適応させた品種・栽培方法で赤ワインを町の事業として製造している。

釧路から来た特急おおぞらに乗り込んで、札幌へと向かう。この日の日差しは明るく、山々は白く輝いていた。ディーゼルカーの重々しい走り。だんだんと日高の山の中へと入る。葉の落ちた広葉樹のなかで黒々としたトドマツやエゾマツが目立った。モノトーンの世界である。トマム占冠、夕張を抜けて石狩低地帯の穀倉地帯へと出た。ここまで来れば、札幌はすぐそこである。

秋田・米代川流域

秋田杉は本来天然の杉のことを指していたそうだが、近年は枯渇してきたから、人工林のものもそう呼ぶようになっているようだ。 高齢級の大きな杉はどこにでもあるわけではなく、スポット的に分布しているようだ。道路沿いで見かけるすぎはどれもせいぜい40cm程度の杉で、手入れもよくされているとはいえない。低い山に杉だけがびっしりと生え、その黒い梢がどこまでもダラダラと続いているのがこの地域の景観だ。川沿いの平地にポツポツと集落がある。私が現地に行った時は冬になろうとする時期だったから日が刺すことはほとんどなく、どんよりとした日本海らしい鼠色の空が重々しく地面を押し付けているようだった。 臨床には笹が生えている。広葉樹や林床の小低木の具体的な種名を記録することは私の力不足でできない。面白いのは、切り株が高いことだ。おそらく積雪機に伐採しているのだろう。ちなみに、美麗なマイマイカブリの亜種であるキタカブリはこうした高い切り株の樹皮下で越冬していることが多い。

スポット的に分布する天然秋田杉の群落のうち、私が実際に見たのは上大内沢国有林の小班に分布する群落である。高齢級の杉林は、雰囲気が全く異なる。直径2m近くあろうかという杉が真っ直ぐに屹立し、列柱回廊のような整然とした空間となる。

和歌山・中辺路紀行①野長瀬家のこと

熊野本宮大社を目指す熊野古道の中で、田辺から近露を経て大社へ至る中辺路は古来最も歩かれてきた場所である。ちょうど中間に位置する近露は小さい集落であるが、この辺りでは開けた場所で旅人が休む宿が数多くあった。ここに南朝の忠臣として語り継がれてきた野長瀬家の物語がある。

野長瀬家についての参照文献を挙げる。

野長瀬家の歴史については、野長瀬盛孝(平成13年没)による一連の記述がある。

  1. 野長瀬盛孝(1994)野長瀬家の事績
  2. 野長瀬盛孝(1961)野長瀬の流れ
  3. 野長瀬盛孝(1971)南朝の跡を尋ねて

明治以降の野長瀬氏の活動について、神社合祀反対運動の記録から以下の論考がある。

  1. 南方熊楠と野長瀬忠男の神社合祀反対・神社林保存運動 : 近野村の社会構造を踏まえつつ

また、野長瀬晩花は著名な日本画家であり、伝記が出版されている。

  1. 和高伸二(1975)野長瀬晩花

山村の名家の人々が明治以降の日本の社会環境の変化をどのように生き、現代につながるかに私の興味はある。

11月下旬

国道311号線を進み、「福定の大イチョウ」を見た。さらに東へ進みトンネルを抜けると、近露の集落が開ける。なかへち美術館で野長瀬晩花展をみた。

野長瀬・横矢家の墓は熊野古道沿いの旧宿場街を抜けてこんもりとした森を登る付近にある。あちこちに散らばって見つかった五輪塔をまとめて安置したという空間が長い時間を感じさせる。墓というよりは、供養塔のようなものだろう。サカキと酒が供えられていた。ここはかつて「観音寺」の境内だった場所らしく、付近に野長瀬本家の墓や横矢家の墓がある。野長瀬家についての記述を多く残した野長瀬盛孝の墓もここにあった。

野長瀬・横矢家の墓(五輪塔

野長瀬家の墓は「見松寺」にもある。こちらには野長瀬家のうち「かめや」という旅館を営んでいた家系の墓があるようだ。画家野長瀬晩花の家系もこちらである(晩花の墓はない)。「かめや」の家は横矢性だったものを、明治の頃に野長瀬性にした家系である。この所以については我が家こそ本家であるという主張が根拠にあるらしい。「かめや」野長瀬家のうち野長瀬忠男、野長瀬六郎の墓があった。

この地で50年という寺の28代目住職に話を聞いた。見松寺は1666年に創建された。現在の建物は70年前に建て替えたもので、その際の寄付金の一覧が掲げられている。そこに野長瀬の記載はなかった。さまざまな工夫で徐々に寺の施設を充実させてきた話を伺った。野長瀬の墓参りに訪れる人も近年は少ないそうである。この地に生きてきた先祖の確かなしるしを見ることができた。

熊野古道沿いに旧宿屋が連なっており、そのうちの「かめや」の建物は今はカフェレストランとなっている。当時の雰囲気を残したまま活用されていて、かなりの客が入っていた。『野長瀬晩花』に記述のあるような晩花の落書きをあるか店員に聞いたが、知らないとのことだった。特に関心がなくとも、古い家屋として大切に活用さていることにむしろ好感を覚えた。和歌山県の保存建築物に指定されている。

「かめや」

「かめや」野長瀬家は幕末〜明治期に相当の資産を持ち、実業家忠男や日本画家晩花を輩出した。忠男は「トピー工業」の創始者として、晩花は自由奔放な画家として名を残している。もう一人、長男の才男は大阪に出るなどして商売をしていたが、うまくはいかなかったようだ。野長瀬兄弟は結局近露には戻らず、財産は早くに手放されたようである。郷里には拘らない力強さがあったのだとも思える。

「かめや」野長瀬家は、明治維新の変化に乗って野心を持って勇躍しようとした家系だったのかもしれない。とはいえ、いわゆる「立身出世」の方向は目指さなかった。そんな彼らの姿勢を端的に示すエピソードが、博物学南方熊楠と共に繰り広げた神社合祀反対運動だと言えるだろう。

神社合祀反対運動は、南方熊楠が主に現代でいうところの生態学の見地から、神社の原生に近いような森林の生態系を保護しようとした活動である。和歌山の各地で行われた神社合祀に熊楠は反対したが、そのうち近露に程近い野中集落の「継桜王子」の社にあった杉の巨木群の保護に、野長瀬兄弟とくに忠男が関与した。忠男は4度にわたって牟婁新報に主張を展開している。実際の樹木の測定に加え、忠男の米国体験を踏まえた日本における自然保護思想の不足を指摘しており、忠男自身もよく熊楠の主張を自分のものとしていたことがわかる。彼らの活動が実って、九本の巨木は残された。その姿を今も見ることができるが、周囲の環境変化からか樹勢は良いとはいえないように見える。上述論考にあるが、神社合祀に伴う巨樹の伐採は、地方の負担増に伴う財源確保が求められ泣く泣く行われたものだった。急激な社会の変化がもたらした歪みによって失われた地域の財産は数知れないのだろう。

継桜王子社 野中の一方杉

学者も来たりてこの樹木を見よ、史家も来たりてこの樹木を見よ、大臣も知事も郡長も共に來てこの樹木を見よ、特に本邦に於け科学者は來てこの樹木を見ざるべからず、而してこの千古鬱蒼たる彼等の沈黙に聞け、鳥は来りてその枝に巣を営み、蟲は來てその皮下に隠る人間も來てこの樹下に休息せよ時に或いは汝等が心身を虜とせる名利の私情より離脱しこの哲人に聞け、妄りに來て斧を振るうことの善悪は最早論ずる迄も無き事なり

「神木の運命 近野村神社問題と其現状及樹木,『牟婁新報』明治44年11月19日

 

吉野紀行

2023/5/3

8:00にオリックスレンタカーで車を借りる。日産マーチ。各家で荷物を積んで双葉ICから中部横断道に乗る。新清水ICで新東名に移り、浜松SAで最初の休憩をとる。風にのる湿気と植物の匂いが山梨と違う。SAで浜松餃子とラーメンの昼食をとる。このあと渋滞が予想されたから腹ごしらえはしっかりと。浜松SAを出てすぐのトンネルで事故渋滞となったが、大した長さではなかった。東名高速を経由して伊勢湾岸道に移る。山が見えない濃尾平野の広さに驚く。車の流れが悪くここで時間をとられた。御在所SAで休憩をとる。

2023/5/4

川上村の林業地を回る。前もって目星をつけていた場所に行く。
中奥川ぞいの人工林に200~300年生の杉林がある。1haくらい。巻尺で直径を測ると124cmという数字になった。緩慢・通直な巨木が並ぶ様は建築物のような人工味を感じさせる整然とした空間である。日が林床まで差し込み、ワラビなどの下層植生が生える。土質は小轢状で山梨の造林地と似ている。後で会う漁協の堀谷氏によれば、ここによく林業関係者が見学に来るらしい。周囲には若い造林地もある。直径40cm程度の林は9本/haくらいの印象。かな

り密植の状態がこの齢級まで続けられるのか。中に作られていた作業道は切り土面が丸太工で止められていた。
中奥側で水生昆虫をとる。それぞれの環境から種数はとったので、後でよく見よう。
漁協の堀谷さんは釣りのようないでたちの自分に声をかけてきた。鮎釣りシーズン(6月解禁)に備えて川を巡っているそう。川上村は鮎の名産地で、「日本一」だそうだ。とはいえ稚鮎を別の場所から持ってきて、放流しているそうだが。大滝ダム等、あゆが天然俎上できる環境ではなくなってしまっている。林業地を見にきたというと、今の状況を話してくれた。林業をやる人は減っている。昔は木一本で高級車1台が買えたが、今は安くて森林の手入れができないほど。仕事がないから、今は公共工事に関

わる仕事をしている。

吉野杉200年生以上