和歌山・中辺路紀行①野長瀬家のこと

熊野本宮大社を目指す熊野古道の中で、田辺から近露を経て大社へ至る中辺路は古来最も歩かれてきた場所である。ちょうど中間に位置する近露は小さい集落であるが、この辺りでは開けた場所で旅人が休む宿が数多くあった。ここに南朝の忠臣として語り継がれてきた野長瀬家の物語がある。

野長瀬家についての参照文献を挙げる。

野長瀬家の歴史については、野長瀬盛孝(平成13年没)による一連の記述がある。

  1. 野長瀬盛孝(1994)野長瀬家の事績
  2. 野長瀬盛孝(1961)野長瀬の流れ
  3. 野長瀬盛孝(1971)南朝の跡を尋ねて

明治以降の野長瀬氏の活動について、神社合祀反対運動の記録から以下の論考がある。

  1. 南方熊楠と野長瀬忠男の神社合祀反対・神社林保存運動 : 近野村の社会構造を踏まえつつ

また、野長瀬晩花は著名な日本画家であり、伝記が出版されている。

  1. 和高伸二(1975)野長瀬晩花

山村の名家の人々が明治以降の日本の社会環境の変化をどのように生き、現代につながるかに私の興味はある。

11月下旬

国道311号線を進み、「福定の大イチョウ」を見た。さらに東へ進みトンネルを抜けると、近露の集落が開ける。なかへち美術館で野長瀬晩花展をみた。

野長瀬・横矢家の墓は熊野古道沿いの旧宿場街を抜けてこんもりとした森を登る付近にある。あちこちに散らばって見つかった五輪塔をまとめて安置したという空間が長い時間を感じさせる。墓というよりは、供養塔のようなものだろう。サカキと酒が供えられていた。ここはかつて「観音寺」の境内だった場所らしく、付近に野長瀬本家の墓や横矢家の墓がある。野長瀬家についての記述を多く残した野長瀬盛孝の墓もここにあった。

野長瀬・横矢家の墓(五輪塔

野長瀬家の墓は「見松寺」にもある。こちらには野長瀬家のうち「かめや」という旅館を営んでいた家系の墓があるようだ。画家野長瀬晩花の家系もこちらである(晩花の墓はない)。「かめや」の家は横矢性だったものを、明治の頃に野長瀬性にした家系である。この所以については我が家こそ本家であるという主張が根拠にあるらしい。「かめや」野長瀬家のうち野長瀬忠男、野長瀬六郎の墓があった。

この地で50年という寺の28代目住職に話を聞いた。見松寺は1666年に創建された。現在の建物は70年前に建て替えたもので、その際の寄付金の一覧が掲げられている。そこに野長瀬の記載はなかった。さまざまな工夫で徐々に寺の施設を充実させてきた話を伺った。野長瀬の墓参りに訪れる人も近年は少ないそうである。この地に生きてきた先祖の確かなしるしを見ることができた。

熊野古道沿いに旧宿屋が連なっており、そのうちの「かめや」の建物は今はカフェレストランとなっている。当時の雰囲気を残したまま活用されていて、かなりの客が入っていた。『野長瀬晩花』に記述のあるような晩花の落書きをあるか店員に聞いたが、知らないとのことだった。特に関心がなくとも、古い家屋として大切に活用さていることにむしろ好感を覚えた。和歌山県の保存建築物に指定されている。

「かめや」

「かめや」野長瀬家は幕末〜明治期に相当の資産を持ち、実業家忠男や日本画家晩花を輩出した。忠男は「トピー工業」の創始者として、晩花は自由奔放な画家として名を残している。もう一人、長男の才男は大阪に出るなどして商売をしていたが、うまくはいかなかったようだ。野長瀬兄弟は結局近露には戻らず、財産は早くに手放されたようである。郷里には拘らない力強さがあったのだとも思える。

「かめや」野長瀬家は、明治維新の変化に乗って野心を持って勇躍しようとした家系だったのかもしれない。とはいえ、いわゆる「立身出世」の方向は目指さなかった。そんな彼らの姿勢を端的に示すエピソードが、博物学南方熊楠と共に繰り広げた神社合祀反対運動だと言えるだろう。

神社合祀反対運動は、南方熊楠が主に現代でいうところの生態学の見地から、神社の原生に近いような森林の生態系を保護しようとした活動である。和歌山の各地で行われた神社合祀に熊楠は反対したが、そのうち近露に程近い野中集落の「継桜王子」の社にあった杉の巨木群の保護に、野長瀬兄弟とくに忠男が関与した。忠男は4度にわたって牟婁新報に主張を展開している。実際の樹木の測定に加え、忠男の米国体験を踏まえた日本における自然保護思想の不足を指摘しており、忠男自身もよく熊楠の主張を自分のものとしていたことがわかる。彼らの活動が実って、九本の巨木は残された。その姿を今も見ることができるが、周囲の環境変化からか樹勢は良いとはいえないように見える。上述論考にあるが、神社合祀に伴う巨樹の伐採は、地方の負担増に伴う財源確保が求められ泣く泣く行われたものだった。急激な社会の変化がもたらした歪みによって失われた地域の財産は数知れないのだろう。

継桜王子社 野中の一方杉

学者も来たりてこの樹木を見よ、史家も来たりてこの樹木を見よ、大臣も知事も郡長も共に來てこの樹木を見よ、特に本邦に於け科学者は來てこの樹木を見ざるべからず、而してこの千古鬱蒼たる彼等の沈黙に聞け、鳥は来りてその枝に巣を営み、蟲は來てその皮下に隠る人間も來てこの樹下に休息せよ時に或いは汝等が心身を虜とせる名利の私情より離脱しこの哲人に聞け、妄りに來て斧を振るうことの善悪は最早論ずる迄も無き事なり

「神木の運命 近野村神社問題と其現状及樹木,『牟婁新報』明治44年11月19日